Knowwhy

Michael Kuhn – Arguing about theories and political opinions

コロナウ イ ル ス 1: なぜ国家はこれをウィルスとの戦争だと喧伝し、日常生活を妨げるのか

全ては現実に起こっていることなのか、それとも我々はSF小説の世界に入り込んでしまったのか。数日のうちに全てがこれまでと違うものになり、我々の生活も昨日と今日では全く違う。あちこちで起こっているというだけでなく、少しずつ世界中で、我々の生活の「電源」が落とされている。なぜこんなことが起こるのか。1種類のウィルスが病と死で人類を脅かしている。双眼鏡で見てもわからないような微小生物が人間の体にこっそり忍び込み、健康な体を傷つけたり、時には死に至らしめたりしているのだ。

その一方で、なぜこれがSF小説というべきなのか。日常でこんなことが起こるのはごく普通のことで、我々の日常生活の一部じゃないか。毎年同じような時期にそのような微小生物であるウィルスが人間の体に知らぬ間に入り込むことで、人類を攻撃し、相当数の人が病気になったり亡くなったりする。 優秀な科学者たちはいつも前もってこのウィルスの感染者数と死亡者数を予測することができるし、シーズンの終わりにはさらに正確な数を記録してリスト化している。単純なことだ。

忘れてはいけないのは、これはいわば決まりきった仕事で、感染者や死亡者の数は年中カウントされている。そのような疾病は、人類そして多くの科学者に長年知られていて研究が行われているが、完治する方法は見つけられておらず、そのためそういった疾病はこの世からなくならない。

国民国家(以下、国家)の疾病に関する懸念に関連して、ウィルスによるものと同様に1分単位での餓死者数の記録があることも覚えておくべきだろう。正確な記録をしてそれで終わり。このことについてはいくらか道徳的な懸念が表されることもあるが、それ以外については餓死者数について考える理由などない。これも我々の生活の一部で、深く考える理由は何もない。

では、COVID-19と呼ばれるウィルスについてはどうだろう。なぜ、このウィルスは 今日から明日という短い期間で世界中の人々の生活全体を停止させることができるのだろうか。日常生活における義務的な部分は全て閉鎖し、幼稚園、学校、大学という、これまで行かなければならなかった場所も今は行かなくても良く、行くことを禁止されている。商店、バー、居酒屋、映画館、サッカー、全部禁止。余暇として楽しんでいたことも全て禁じられ、これまで義務としてしなければならなかったことまで禁止。ただし、ひとつ例外があり、働くことは禁じられていない。学校でそうなる可能性があるように、仕事場でこのウィルスに感染するかもしれないが、健康であれば仕事には行かなくてはならない。

なぜこういうことが起こっているのか。答えは簡単。我々を病気にしたり死に至らしめたりするのは同じでも他の疾病と違うのは、このウィルスには治療薬が存在しない。それはなぜか。ここで問題として捉える点は、他の疾病に罹り亡くなる人がいても同時にそこには治療薬があり、毎年の罹患者や死亡者の数は正確に記録されていることである。

そして、先に触れたとおり、毎分の餓死者数に対して何ができるかという問いについては真剣に議論されていない、というのが現実なのだ。

他の疾病については全く問題視されておらず、誰も気にも留めていない。疾病に罹患する人やそれで死亡する人はいるが、それに対する治療薬はある。治療薬で全員が治癒するというわけではないが、どれほどの人数が罹患するか、また、いつ(何歳で)罹患し死亡するのかということを多かれ少なかれコントロールすることは治療薬のおかげで可能なのである。

餓死者について考えてみよう。餓死に対する治療薬は至極単純なものである。食べ物を彼らに提供すれば良いだけだ。餓死していく人たちを誰も気に留めない。なぜなら、彼らは何の役にも立たない人だからだ。これが現実なのだ。利用可能な人間は食べ物を手に入れることができる。利用可能とは仕事を見つけることで、そういった仕事をビジネスにする人がいる場合のみ仕事は見つかる。誰もがこのことを知っているし、世界中のどこに行ってもそれは同じ。誰かを雇用することによりビジネスが成り立つのであれば、そこには仕事がある。そういうビジネスがなければ、仕事もない。仕事がないところにはお金はない。だから、食べるものもない。こうして世界は機能しているのだ。飢餓についてはたったこれだけのこと。

インフルエンザや癌、治療薬のある疾病で亡くなる人について考えると、治療薬があるからといって罹患者や死亡者がいなくなるというわけではない。むしろ、毎年の罹患者や死亡者はビジネスとして扱われており、罹患者や死亡者がいる事実は治療薬があるということで深刻な問題として扱われていないのである。癌による死亡者は大部分が高齢者であるが、彼らも利用価値のない人々ということになる。この点においては餓死者と同様である。インフルエンザのケースでは、治療のおかげで罹患者及び死亡者の数はコントロールされており、毎年その数は計算可能であることから、インフルエンザを完全に撲滅することは目標にはならない。

これが、この新しく出現したウィルス、COVID-19に関する問題の全貌なのである。問題となっているのは罹患者や死亡者ではない。罹患者や死亡者なら他の疾病についても存在している。問題は、我々の日常生活について発言権があり『今日から全て禁止だ』という人々なのだ。真の問題は、このウィルスには治療薬がなく、治療薬がないということは医療システムに関して決定権を持つ政治エリートが他の疾病については存在している、罹患者の数をコントロールする手段を持っていないということだ。つまり、政治家にとっては、国民の健康をコントロールできないということが最も深刻な問題なのである。

治療薬が国民の健康をコントロールする重要な手段なのであれば、なぜそのような治療薬が現存しないのか、ということを考えれば、「このウィルスに対する治療薬がないという事実に対して、世界中の政治家たちはこの状態を戦争状態とみなすだけでなく、実際に戦争状態であるかのように振舞っているのはなぜなのか」という疑問に対してすでに半分ほどは答えが見えてくるはずである。

さて、なぜ治療薬がないのか。この新型のウィルスに対する治療薬ができているはずだった、ということは誰もが知っている。SARSと呼ばれるウィルスに数年前に我々が直面した後、科学者たちはSARSウィルスを利用して集約的な研究を行い、治療方法を確立することを強く進言した。これは、そのようなウィルスが極めて類似した形態や性質を持ちうるということを前提に、将来発現するウィルスに備えるためである。そのような研究を行い、治療薬を創薬するには数百万ユーロが必要だったが、株式市場や国家が普段動かしている多額の金額に比べれば、到底莫大な費用だとは言えない。だが、その後何が実際に起こったか。誰もが知っているように、魅力的な利益を連れて戻ってくることを確約されたところにしか財産は投資されることはない。そのため、資本主義制度においてどこでもそれが当たり前なのと同様に、前述の研究は現実に行われなかった。魅力あるビジネスを約束するわけでもない研究には個人資本からも国家からも投資は受けられなかったのだ。なぜなら、SARSウィルスは突然終息し、その上SARSに翻弄されたのは結局アジア諸国だけでヨーロッパには関係がなかったからだ。SARSウィルスの研究は確約されたビジネスとみなされなかったため、治療薬の創薬準備段階にあった研究は中止となった。今回、新型ウィルスに治療薬がないのはこのような理由からである。

政治家が日常の全てをコントロールできるようにし、この新型のウィルスが引き起こした損害のコントロールを可能にする治療薬がなぜ存在しないのか、ということの答えがわかれば、このウィルスがどのようなもので、それによっていつ、誰に、そしてどれほどの人数にどのような害を及ぼすのか、ということをコントロールできない世界中の国家が、今の状態を戦時だと解釈するだけでなくまるで戦時であるかのように振舞うのはなぜか、ほぼ明白になってきている。

国家にとって、その国民のあり方に対して影響力を発揮出来る手段を持たず、しかも、どんな人がそしてどれほどの人数が罹患するかを決めるのがウィルスだという状況は、最悪のシナリオなのである。もはや国家が国民やその生活一般、および特に国民の健康について発言権を持てないなど、最悪以外の何物でもない。なぜなら、国家というものはその国民と国に対する権威から成り立っているもので、そのような政治権力にとってこのウィルスが疑問を投げかけているのは、このようなことがなければ疑問視されることのない統治権だからである。統治権とは国家の全てであり、支配する国民に起こることに統治権のない国家は、その存在自体を疑問視される、ということになる。そのため、国家は現在を戦時と捉え、まるでこのウィルスが他の国家で戦力を装備してこの統治権を攻撃しているかのように振舞っているのだ。国家にとって、国家に従わないものはたとえそれがウィルスであっても、それに相対するということは戦争と同じなのである。なぜなら、全てをコントロールするということが国家を国家たらしめることであり、国家とは絶対的な統治権を持った政治的権力であり、何者、何事によっても疑問視されたことのないものだからである。

このウィルスに対する治療薬がないということで、国民に対する権威が保てなくなるというこの問題は、国家にとっては戦時であり、そのためウィルスに対する戦争を宣言し、国家の医療システムと国民に対する統治権があることを改めて確認するための政策が導入されるのである。 国家としての統治権を再確認するというこの目的は何者-それがウィルスであろうと-からも疑問視されず、政治行動を形成し、その政治行動というものは実際に起こる戦争のための政策からなるものである。戦争のために国家が有する政治的権力により実行される政策には、国家が有するあらゆる手段で、普段なら良い国民の振る舞いとして従っている日常生活におけるルールを中断したり、健康のための行動を強いることも含まれる。

統治権を再確認するために国家が行っていること、とられている政策および国家や国民について上記のことが示唆することは次回のブログ2のトピックとする。権威を取り戻すために国家がこの「戦争」をどのように実行しているのか、そしてそれを外交関係とどのように結びつけているのかはブログ3のトピックとする。

実際に、実に多くのおかしな事が起こっている。例えば、ウィルスと戦うために、医療システムは過剰な数の病人から守られなければならず、健康な人間は絶対に病気に罹患しないようにしなければならない。ウィルスは国家間の国境を知らず、ウィルスの存在が広く知られていなかった時にも国境は存在していたが、ヨーロッパの例を見ればよく分かるように、今や国境はかつてないほどに 再び明確にされている。その上、すべての国家が同じように 自国民の健康を重視するあまり、外国籍の市民を国外退去にし、国の医療システムが過剰に利用されないようにしている。それだけではなくさらに多くのおかしな事が起こっているのだ。

(Translated from English to Japanese by Kazumi Okamoto)


Posted

in

by

Tags:

Comments

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *