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Michael Kuhn – Arguing about theories and political opinions

コロナウィルス 4:ウィルスとの戦争で反目しつつ共に戦う国家と国民

救済を受け取る人に対して力づくで救済策を実施するということは、国家だけができることである。そして、国家が普段よりもかなり異なる方法で多くのことを実際に行うのが、この国家戦争プログラムであるが、ほぼ全てのことはいつもと同じようである。

民主主義国家と独裁国家の線引きをする、と普段言われている基本的な公民権が停止されるのに、せいぜい2、3時間しかかからなかった。ここから先は、公民権はなし。独裁主義にはない国民の権利は、国家の暴力から国民を守るために存在していたが、そのような暴力を行使するものは他にいないので、国民の持つ全ての権利の停止は、独裁主義を導入することなく行われた。何の法律を撤廃することもなく、むしろ国民に自由を寛大に保障したまさにその法律で国民の権利は停止されたのだ。国家だけが権力の行使をできるという政治的見解から国家は国民の自由を認め、国民の自由を認めることが国家にとって不適切だと思われる時には、その権力を最大限に発揮して国民の権利を停止するのだ。ちょうど今国家がそうしているように。

自由というものは現在、国家にとってはふさわしくない。なぜなら、自由を認めるということは、国民自身が、個々の人生設計に基づいて生活をする際に、彼らの健康を脅かすものをどのように扱うのが最適かということを国民自身が決めることになるからである。これは現在禁じられていることである。国民が自分にとっての優先事項を比較決定することは禁止事項であり、国民は何も決めることはできず、国家によって定められた優先事項と優先事項の条件のみが適用される。個人の利益や個人的な優先事項の取捨選択に対しては全く冷酷な態度で、即座にこれら優先事項は適用となる。そこには議論というものは全くなく、国家の優先事項は、国民に対して容赦なく罰則や痛みの伴う損失といった脅しで、力づくで実行に移される。政治はいつもこのように機能するものなのである。

国家の優先事項とは、社会全体を維持することであり、それは国家が優先すべきものとみなすものを機能させ続けるということである。優先すべきものとは、まず国家それ自身であり、その次に来るのが経済である。国民にとってこれは何を意味するかというと、彼らは働き続けなければならないということである。これは、経済が我々の必要なもの全てを我々に供給してくれるという虚偽の議論を表している。まず、経済が生み出したもの全てを当然、我々は必要としていない。ほとんどのものは経済が経済のために生み出したものであり、仮に経済が我々に本当に必要な食物を少なくとも生産したとすると、それは全員に供給されるはずである。もちろん、これは可能ではない。なぜなら、経済というものは良いビジネスを作るべきものだからである。換言すると、経済-食物を生産するものでもあるが-はそのビジネスのために生産活動を行うものであり、ビジネスにならなければ、我々も知っているように、経済は何も生産しないのである。我々全員がビジネスを創出する経済に依存しており、この社会において何も機能しなければ、食べ物すらも存在しない。そのため、政治の最優先事項はビジネスが持続的に機能するということになるのである。だから、人々は働き続ける。そして、人々を働かせるために、それ以外の国民の優先事項はすべて禁止されるのである。

そうして、国民の経済への依存が生活の基盤として確立され、さらに、国家権力によって国民個人が意思決定することを禁じられ、国家は、国家と経済の保護を優先させることを念頭にそれを優先事項として政策を実施するため、国民の生活とその健康への懸念として国民が扱われるのである。このような状態で生じる費用は少額ではなく、誰もがすでにその費用がいくらか知っている。経済に与えられた金額と経済が負うであろう損失に対する費用の全額を果たして誰が負担するのか、と問う者もすでにいるかもしれない。間違いなく、経済はそれを負担しないだろう。経済は機能し続けなければならないし、経済なしでは何も機能しないのだから。我々に伝えられているようにこの危機を切り抜けなければならないのは経済で、国民は健康のために、自由を犠牲にした上さらにこの危機が将来彼らにもたらす費用を負担しなければならないのである。経済の健康のために完璧な治療薬は何かということを国家の指導者達は知っている。それは無限の財政出動である。

この経済とは何か、と問うならば、経済は全てを従属させるものである。国家は、独占的に使用できる権力を用いて、経済がその役割を果たすようにしているのである。この経済とは、つまり、工場や店舗、病院に至るまで全てのものを所有する、世界の人口の0.1%の人々のことで、彼らの所有する全てのもの、全ての人を使って、彼らの資本を際限なく増やすものである。この0.1%の人々の富がどんどん増え続けるように、それ以外の人々は働き続け、その資本の山が大きくなった時だけ、そこから僅かな取り分を与えられるのである。このように、人々は経済に完全に依存しなければならず、全ての経済活動は、経済が産出した有益なものによって評価されるのではなく、さらに大きな資本をもたらすかどうかによって評価される。この馬鹿げた経済のために、世界の国家の国民はこの経済に奉仕させられているのである。

国家が上記のような方法で全てをお膳立てし、何が起ころうとも平時でも現在のような例外的な状況においても国民の支配者であり、支配者であり続け、国民を支配下に置いてどのような状況でも対応出来る法律を用意するのである。どういうことかといえば、国家にとって都合の良い時にはその国民に自由を認めるが、同時にその自由は今日から明日という短時間の間に取り消されることもあるということである。

自由やその他の人々の権利が認められているというのは大きな罠である。確かにそのような権利は認められてはいるが、こうした自由や権利を保障するものは同時にこの自由を行使しようとするときに人々に脅威を与える存在でもあるのだ。だから、国家はそうした権利だけを与えているのである。全てのこうした自由は、全く自明のものではなく、政治権力の優先順位に基づいた政治権力による計算され尽くした寛大さなのである。そして、政治権力にとって認められた自由が何を意味するかという判断基準に応じて自由や権利は認められ、現在のように政治的にふさわしくないとなると、それらの権利は何の騒ぎを起こすこともなく取り消されるのだ。

権利として認められ、つい最近国家が取り消したものは、法的にどうでも良いものではない。これは、生活の基本的な事柄に関することである。移動の自由や言論の自由とは、人が考え、行動すること、さらに正確に言えば人が他者に自分の考えを示すことを決定づけるものである。あなたがひとりで思考することは多いかもしれないが、その思考を他者に話すことは全ての社会生活における関係において基本的な行動である。つまり、あなたが何を考えているかを他者に話すことを許可されているということは、単なる取るに足らないことではない。さらに、移動の自由について言えば、何か行動を起こすために行こうと思っている場所に出向くことができなければ、あなたがやりたいと思っていることも実現できないということになる。

こうしたことから、移動の自由を禁止することはあなたがやりたいと思っていることを禁止するということに他ならない。そして、移動の自由が制限されているにもかかわらず、仕事に行くことは可能であるという事実は、国家にとって何が大事で何が大事でないかということを物語っている。

このような与えられた自由に加えて忘れてはならないことは、その他の日常生活にまつわる物事にはあらゆる法律が存在するということである。例外なくすべてのことに対してこれは当てはまり、国家が何を認め、何を認めないかを規定している法律によって全てが規制されているのだ。

現在、健康政策実行の目的でそのような自由全てが中止されているという事実は、 今回、健康のために取り消された自由は、病気以外のことがきっかけであれば、さらに乱暴な形で取り消され強制される可能性もあるということも我々に気付かせるものである。さらに大変な状況に施行される法律は、すでにすべて準備されているということに気付いておくべきである。このような法律を施行する者たちは、すでに今後起こりうる事態を予想しており、そのような状況においては自由が認められないということもすでに知っている。そして、そのような状況を十分に予測しているため、法律にもそのことをすでに組み込み、今回のようにそれが必要となったときにすぐに引き出しから取り出し、今回のウィルスの場合のようにすぐにすべての自由を取り消すのだ。

極めて簡単に、法的な問題もなく、基本的な権利は一国の制令により、そして他国の議会における決定により廃止された。どのような場合であれ、中国を初めとする独裁制による政治は、西洋における民主政治と全く同じようなことを行っており、権力を握っている一握りの政治家は世界中のあちこちで全く同じことを行っている。過大評価された移動の自由を国民に与えるこれらの高貴な権利は、まるで照明のスィッチを切るように取り消されるのだ。

なぜなら、政治家にとって、国民が何をすべきかを指示するために政治家を政界に送り込んだ国民を信用することほど馬鹿げたことはないからである。国民の健康だけが重要な問題である時でさえ、選挙の際に信用して選んだ政治家を信用するということは、その政治家の観点を信用するということになり、病気にならないように何をすべきか、またすべきでないかということについてその政治家がいうことを受け入れることである。このような政治家にとって、政治家が言ったことを鵜呑みにして行うような国民を信用することほど馬鹿げたことはないのである。たとえ国民によって選ばれた政治家、つまり民主主義の思想により任命された民主的な政治家が、その国民の健康の面倒を見るとしても、世界中の政治家、さらに正確に言うとこの国家政策の世界からやってきた政治家にとっては、政治の意思は常に、命令や権力、罰則の脅威によりその国民に強要されるということは最も自明のことである。ウィルスとの戦争や健康のための闘いにおいて、国民はまるで国民自身が敵であるかのように扱われている。

そして、これもまたいつもと全く同じことなのである。政治権力の要望に応じてこれら全ての国民の権利が再び適用されることになる時やたった今まで禁じられてきたことが再び許されることになる時でさえも、政治と国民の関係はいつも全く同じなのである。まず、国民は何も言うべきではない、様々なことについて意見を持つことは許されているが(この点にも要注意)、国民に決定権は全くないのだ。政治とはこういうことである。政治は、全ての重要事項に関する決定権を独占しているだけでなく、国民が何と思おうとその決定事項を国民に強要する権力も有している。今回のようなウィルスとの戦争における決定事項はいつも政治により決められるのであり、国民によって決められるものではない。政治が国民に対して暴力の脅威を用いて決定を強要することは、政治においては通常のことである。普通の国民の生活にとって重要なすべてのこと決めるのと同様に、政治は何歳から学校に通い、働き、定年退職するかということも決める。このような決定事項に議論は必要ではなく、決定事項は強要されるものである。このウィルスとの戦争で国民に対して、「もしも」や「しかし」といった言葉を使うことなく、ただ暴力の脅威が示されているのと同じである。

ウィルスとの戦争における国民、つまり国家的な暴力の脅威を用いた政治による命令の受け手を政治が扱う様子は、極めて普通であり、ウィルスが存在しなくてもそれは同じだと言える。

大部分の人々にとって、この日常生活とはどういうことだろうか。学校では教師が決めたことを習うが、何を習うのかはどうでも良い。他の生徒よりも優秀であることが大事である。次に職業訓練。特に、良い仕事を見つけるにはどんなことをすれば良いか。そして、結婚。ここでは自分の好きな相手を選んでも良い。さあ、仕事を探そう。仕事がなければお金も手に入らない。お金がなければ何もできない。お金を手に入れるには仕事をしなければ。これが法律だ。それ以外のことは罰則を受ける。働け。毎日、1日中。1週間のうち5日。これを40年間。合間には休暇が与えられる。4年に1度は政治参加。日曜日には投票所に行くこと。そうして、65歳になれば定年退職。お金が十分にあれば好きなことをして過ごしても良い。このような日常生活を人々にもたらすことができるのは不思議なことではない。ウィルスとの戦争において国家がその国民を支援する手段と同様である。

したがって、このウィルスとの闘いにおいて、全てが通常通り進んでいる限り、あたかも国民がウィルスに十分苦しめられていないかのように、彼らが国家の命令に従わない場合は罰則を与えると脅かし、国家が国民に通常認めているすべての自由と権利を短期間で取り消すのは驚くようなことではない。そして、たとえ国民に対する権威を国家が強く主張したとしても、国民はそれに従うので、ウィルスとの戦争において国民に対して禁止事項を出しても、国家は国民の救世主とみなされるわけである。これもいつもと同じことである。

どのような場合であれ、戦争における敵がウィルスではなく他の国家である場合に何が起こるかということを国民はすでに理解している。5番目のブログはそれについて書いてみようと思う。

(Translated from English to Japanese by Kazumi Okamoto)


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